空いろの花

青いお空の色してる
小さい花よ、よくおきき。


むかし、ここらに黒い瞳(め)の、
かわいい女の子があって、
さっきわたしのしてたよに、
いつもお空をみていたの。


一日青ぞらうつるので、
おめめはいつか、空いろの、
小さな花になっちゃって、
いまもお空をみているの。


花よ、わたしのおはなしが、
もしもちがっていないなら、
おまえはえらいはかせより、
ほんとの空を知っていよ。


いつもわたしが空をみて、
たくさん、たくさん、考えて、
ひとつもほんとは知らぬこと、
みんなみていよ、知っていよ。


えらいお花はだァまって、
じっとお空をみつめてる。
空にそまった青い瞳(め)で、
いまも、あきずにみつめてる。
         JULA出版局 金子みすゞ童謡集『明るいほうへ』より

この「空いろの花」という詩に出会ったのは10年ほど前。
苦しみが深く、詩が浮かんでこないわたしに知人が金子みすゞ童謡集を紹介してくれた。
金子みすゞという詩人の存在を初めて知ったわたしは、吸い寄せられるようにページをめくった。特に響いた4つほどの作品にそれぞれ10分くらいでメロディーが生まれ、この歌もその一つ。
金子みすゞの童謡は観想的なセンスが溢れていて、とても貴重なことをわたしに教えてくれる。

 
     “神を知る”ためには“神を見つめる”ことが何よりも大切で確実。
     いろいろと“神について考える”のではなく、だまってじっと“神を見つめる”・・・
     そうすると“神を知る”ことができ、またそれ以上に“神の色に染められていく”のだ。
     「聖なるものになりなさい」「憐れみ深いものになりなさい」というイエスの望みがこの身に実現されていく。
      つまり、“神を映すものとなっていく”。 しかもそれは、「いつの間にか」である。


学研に力を尽くした多くの神学者ではなく、学問を修めたことのないアヴィラの聖テレサリジューの聖テレーズが教会博士に上げられた。彼女たちは、単調で隠れた日常の中であっても“神を観続けた”まなざしにより、最も深い神的知識を受けた。
“神を知る”ために、わたしたちは何かを買い求めたりどこか遠くへでかけなくても・・・・すでに環境は整えられているのだ。

                                               写真:片柳弘史