六月クラスの要約「見る」 〜テレーズとともに〜


毎日の生活の中で、わたしたちの目には何が映っているのでしょうか。
フランシスコ教皇が「最も好きな聖人」としてその名を挙げ、各教皇がその霊性を大きく称え続けているリジューの聖テレーズ。
聖女はわたしたちとはちがう何か特別なものを見ていたのでしょうか。
  
(ここで女子パウロ会から発売されているDVD『幼いイエスの聖テレーズ』を鑑賞)


壁・天井・食堂・洗濯場・庭・階段・共に暮らす人々・・・これらはわたしたちの日常にもあるものです。
少しちがっているとすれば、聖堂につながっている「歌隊所」と言われる祈りの場所くらいです。
しかしそれも、気分が高揚するような特別な装飾があるわけではなく、質素な木製の椅子が並んでいるだけです。
聖女の暮らしていた場所はわたしたちの日常より「宗教的テンションの上がる夢の空間」ではなかったのです。


ではなぜ信仰の暗闇や様々な試練を過っていたテレーズに「イエスへの愛を生き抜く」ことができたのでしょうか。
それはきっと、事象の奥を見つめるまなざしを持っていたからにちがいありません。
たとえば、目の前に美味しそうな料理が出されたとき、人によって、また時によっていろいろな感じ方をすると思います。

  ・まあ、美味しそう!
  ・料理してくれた人の心を感じるわ!
  ・ここに並ぶ食材は、わたしを養うために命を捧げてくれたのだわ!
  ・食べるに値しない罪びとであるわたしに、あわれみ深い神さまはこのような恵みで満たしてくださる・・・
  ・ここに存在するもの、すべてに神さまの現存を感じて、ただ合掌するだけです・・・

そのほかにも様々な思いが浮かぶことでしょう。単純で素直な心の反応はどれも素晴らしいものと思います。
でも、さりげないことの中に神さまの存在や無償の愛に気づくことができるとしたら、とても幸せなことです。
テレーズはきっとこのまなざしをもっていたから、信仰の次元で愛と忍耐を生き続けることができたのでしょう。


その証拠の一つとして、テレーズは自分の修道名につける“お冠”(カルメル会では修道名の頭に原義や聖人名をつけます)に
「幼きイエス」だけではなく、「尊き面影」をつけています。
イザヤ53章に主のしもべの姿がこう描かれています。「輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され・・・」
これはまさに、受難のキリストの姿に重なります。
引き裂かれていくキリストの心を映す面差し、その奥に「わたしたちへの狂おしいほどの愛」を見抜いていたテレーズ。


ではなぜテレーズにこの深いまなざしが与えられたのでしょうか。
  ・人間的な広い教養があったのでしょうか。 いいえ。
  ・豊かな社会経験があったのでしょうか。  いいえ。
  ・たくさんの霊的読書をしたのでしょうか。  いいえ。
   それどころか、祈りの深まりとともにそれらからも解放されて、福音書のみを愛読するようになりました。

テレーズのまなざしが深まった秘訣は「神さまへの信頼と委託」だったと思います。
自分に頼らず、すべてをご覧になる神さまの愛に信頼し、すがり、結果も委ねるという姿勢です。
わたしは「神さま、わたしはあなたに信頼します」とは祈れても、「結果までご自由に」という心にはなかなかなれません。

自叙伝によると、聖女も霊的に成長してきたことが告白されています。
きっとテレーズは神さまにすべてをおまかせすればするほど、ますますそのまなざしが澄んできたのでしょう。




この記事の冒頭に載せた写真は、十字架につけられたキリスト像の横に建っていた像です。
わたしには、最も憧れる“よき罪びと”に見えます。
誰がみても「救いの計画大失敗」で、無残な最期を迎えたナザレのイエスを「天の国の王」と見抜けた“よき罪びと”。
彼のまなざしは、肉の目ではなく「三つめの目」、すなわち「魂のまなざし」であったと思います。

わたしたちの愛するテレーズも、「最愛の聖人は“よき罪びと”とマグダラのマリアです!」と言っています。
罪びとのまま、主と深く交わる可能性は「どう見るか」にかかっていることがわかります。
ということは、わたしたちにも希望があります!

失敗をしながらも、主への全き信頼と委託を学びたいと思います。
そんな小さなわたしたちのまなざしを、主が日々清めてくださいますように。