勧めのことば  〜王であるキリスト〜

司祭不在のときの主日の集会祭儀のために用意しました。
@海星病院 2013・11・23 C年 王であるキリスト 
(ⅡSam.5/1~3・Col.1/12~20・Lc.23/35~43)

 今日、わたしたちは「王であるキリスト」をお祝いします。日本で暮らすわたしたちにとって「王」という言葉はイメージしにくいと思いますが、「王」とはその国や領地を統治される方です。歴史上、また現代社会において様々な王が存在していますが、キリストはどのような「王」なのでしょうか。
 
 今、朗読したルカ福音書にはふたりの犯罪人が登場します。このうち、「お前は神をも恐れないのか・・・」とたしなめた方の犯罪人がいます。この罪びとは、自分と同じく極刑を課せられ、となりの十字架に架けられたナザレのイエスを「神の子」と見抜きました。そして、自分自身が刑罰に値する罪びとあることを悟っていた彼は、その状況におかれたまま、イエスの名を呼び、イエスに願いを打ち明けました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
 「あなたの御国」このことばから察すると、イエスが「死のあとに入る天国を統治される方=王」であると罪びとは直観していたようです。その祈願に応じたイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園いる」と応えられました。

 わたくしごとですが、神さまに喜んでいただきたくて、がんばればがんばるほど失敗したり、身体を壊したりする時期が続いたことがありました。「こんなにも情けない状態、要領を得ない惨めなわたし、弱いわたしは、もう神さまに喜んでいただけないのか」とたいへん落ち込みました。そんな時、聖書の中にお手本を探していくと、この箇所に出会ったのです。
 罪びとのことばを受けたイエスの御顔が輝いているように感じたのです。「はっきり言っておく」「あなたは今日」「わたしと一緒に楽園にいる」。
 楽園とは天国であり、すなわち「神の国」とも表現されます。その国の王であられるキリストは何を喜んでくださるのか、わたしの心に光が射しました。わたしたちの王様は、わたしたち罪びとが自分の罪を認め、弱さや不自由さの中から王の名を呼び、寄りすがることを心から喜んでくださるのです!

 王さまであるキリストに喜んでいただくために、成功や体力は要らないのでしょう。キリストはわたしたちの立派な業や業績を喜ばれる王ではないのです。
「元気になってから」「豊かな活動ができてから」「恥ずかしくない人間になってから」と、思いがちのわたしたちです。そうではなく、たしなめた罪びとのような心と態度で、「今」「ここで」神さまに喜びの叫びを上げていただけることを、今日の聖書から気づかされます。
 
今日ここに集う皆さんと、そしてこの病院と特養「うみのほし」にご滞在中のすべての方々とともに、イエスさまのメッセージを心に留めたいと思います。
わたしたちがどのような状態であるかに捉われることなく、「今」「ここから」神さまとの交わりに目覚めてまいりたいと思います。目には見えなくても、この聖堂、この病院にいつもおられて、わたしたちを愛深く支えてくださるキリストとともに、クリスマスに向けての日々を過ごして参りましょう。