エマオへの旅人


 
 みなさま、キリストのご復活おめでとうございます。
 今日の福音では、二人の弟子の信仰体験が描かれています。彼らはイエスさまが十字架に架けられたエルサレムに背を向けて、肩を落としてエマオという村へ向かって歩いていくのですが、この道すがら、復活された主と交わっていきます。
 わたしは今日、「目」とか「見える」「見えない」という言葉に心が留まりました。


「二人の目は遮られていて」(16節)・「見当たりませんでした」(24節)

旅の様子からして、弟子たちは肉眼で見ることに支障はなかったようです。でも、そこに近づいてこられた人が主キリストであることに気づかなかったので、ふたりの顔色はまだ冴えませんでした。他の弟子たちも墓のそばで主を見ることができなかったということです。
 わたしたちが生活する上で、物事の認識の多くはこの顔の上にある二つの目、すなわち「視力」に頼っています。そこに映らないものや、そこで識別できないことがあるとわたしたちは不安になります。
 弟子たちにとって師であるキリストの救いの業が大失敗に終わったように見えたり、もう頼れる師が見えなくなったりすることによる落胆は、わたしたちも共感できるのではないでしょうか。


「二人の目が開け」(31節)

 では31節で「二人の目が開け」とはどういうことなのでしょう。わたしにはこの目が顔の上の二つの目ではなく、もう一つの目、すなわち「心の目」「信仰のまなざし」と言えるのではないかと思います。肉眼に映る現象は変わらなくても、もう一つのまなざしが開かれたとき、確かな現実に目覚めるような気がします。
 この弟子たちは、イエスさまが最後の晩餐でされたようにパンを裂いて渡してくださった時に「もう一つの目」が開かれました。その瞬間、今、目の前に主キリストがおられることがわかり、そして時間を遡り、道々語ってくださったことや自分たちの心まで鮮やかに思い出すことができたのです。ミサにおいて「主キリストのからだ」であるご聖体をいただくとき、この二人の弟子のようにわたしたちの心の目も開いていただきたいと思います。

「見えなくなった」(31節)

 また、31節「その姿(主の)は見えなくなった」とあります。
 わたしなど「この目でキリストをずっと見ることができたら、どんなに心強いか」と思ってしまいます。でも、「もう肉眼でキリストを確認しなくても大丈夫!“いのちのパン”の中に復活されたキリストがおられるのだから!」と、福音を書いた聖ルカが宣言しているような気がします。
 二人の弟子たちがすぐに道を引き返して仲間に告げたように、わたしたちも「復活された主がともにいてくださる!」という確信とよろこびをまわりの人々へ告げ知らせたいと思います。

     司祭不在のときの主日の集会祭儀「勧めのことば」より    海星病院 14・5・3 A年 復活節第3主日 
     (Act.2/14,22~33・1Pt.1/17〜21・Lc.24/13~35)