じーざす・とれいる ㉞

主の洗礼の祝日を迎えると「イエスさまの公生活が目前!」と気持ちが引き締まります。
こういう日に教会で新成人の門出を祝えるのはとてもうれしいです。




今日は日曜出勤だった夫が早朝のミサに与ったので、わたしはひとりで10時のミサに与りました。こうしてひとりになる機会は結婚してからは少なくなりました。
それまでは“よい意味での孤独”(神との交わりを深めるための砂漠)は司祭・修道者の特権かと思いがちでした。確かに使徒座から“孤独の生活”を守られているのは独身の召命をいただかれた方だと思います。




でも教会はこのようにも教えてくれます。
「すべてのキリスト者はある種の観想に招かれており、荒れ野に行かないまでも世間からのある種の隔離は必要である。
孤独と沈黙の中で、人はその潔いまなざしで天の花婿を傷つけるあの目、その潔さによって神を見ることを可能にするあの目を勝ち得るように努力する。」(Venite Seorsumより)




夫が出張や仕事で不在のとき、わたしは寂しさを利用して“孤独”を満喫するようにしています。「羽根を伸ばす」という意味ではなく(笑) 心の欠けたところ(なんだか寂しいなぁ・・・と感じるところ)に絶対に消えない光・キリストをお迎えします。




成人した青年のみなさんは、自立していくに従って、またキリストの価値観を生きれば生きるほど、いろいろな孤独を味わうことでしょう。その機会をキリストとの交わりを深める絶好のチャンスとして大切にしていただきたいと思います。
でも、極端にはならず、適度に遊んだり羽根を伸ばしてバランスをとりながら(*^^)v