対話


完治したようだ、彼女のウツ!

すっかり番犬のスタイルを取り戻して、嬉々としている。
試しに「お手」と「おかわり」を教えてみた。
これまで一切芸を仕込まず、自然児として育てていたのでこの歳になってどうかと思ったが、見事習得(^^)v


それにしても、彼女の“やる気”はどうして復活したのか?

♪ラッキーしゃ〜ん、おはよ〜!今日もラッキー、わたしらラッキー、
いつでもラッキー、みんなラッキー、ラッキー、さぁ、今日もい〜ちにち
感謝して〜い〜ただく〜いのちを生きようね〜♪

と歌ってから朝食をあげている。でも、ウツの間もそれはしていた。
病中と病後でのちがう点は、わたしの関わり方だ。
忙しさから、彼女への姿勢が一方的であったと思う。
よいことばと思いは伝えているつもりでも、相手の響きに耳を澄ませていなかった(._.)

「どんな夢をみたの?そう、それで?だいじょうぶよ。ここは痛くない?・・・」


何かと関わりを持つということは、それが生きものであっても物であっても
一方通行であれるならば、相手を生かせないことがわかった。祈りと同じだ。
「しゃべる一方」「差し出す一方」ではなくて響きと響きを交換して初めて、
“健やかな気”が通い合うのかもしれない。



  「祈りとは、わたしの考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ

その神とただふたりだけで度々語り合う、友情の親密な交換にほかなりません。」
                         教会博士・アヴィラの聖テレサ