「捨てる」ということ


今日は終日、苦手科目に取り組んだ。父の衣類を片付けるために、あちらの部屋からこちらの部屋へと運んだり、資源ゴミや寄付のために整理したのだ。
仕立て職人という仕事柄、たくさんのスーツやコートがある。父の手製なので、なかなか処分できない。わたしたちは父の腕で食べ、学び、遊んでもらったのだ。感慨深くて、どれを遺そうか迷う。

その上、何だかポロシャツや下着や靴下が多い。大量の雑巾ができた。実はこういう整理に8カ月近くもの間、少しずつ取り組んでいたが、なかなか捗らなかった。わたしの性格のせいかもしれない。


エスさまといっしょにフーフー言いながら、頭とからだを駆使していてもやっぱり「苦手科目」なだけにストレスが・・・(・。・;


ふと、家の中にできた新しい空間に寂しさを感じ、座り込んで
ボーっとしていると、窓からラッキーが強く一吠えした。「ワン!」
悲しみモードへ流れて行きそうなわたしに 喝!を入れたつもりなのかもしれない。

そう、感傷に浸っている場合ではない。余分なものを捨て、必要なものだけを整理し、余計な装飾を省く!
そうして生まれる空間と孤独を満たすのは“神”。というか、“神”が満ちてくださるために「捨てる」。


オリエンス宗教研究所の新刊「『捨てる』という霊性 〜聖フランチェスコ一遍上人〜」をいただいた。読ませていただこう。



聖クララの修道院へ向かう道の途中に、聖フランチェスコアッシジの街を望む像が置かれている。
アッシジを歩いていたわたしはその空間に魅せられて、横から後ろから何度もシャッターを押した。
座骨をしっかりと地に置いて、背中や額がやわらかい。すばらしいスカ・アーサナだ。

すべてを捨てて、「捨てた」ことも忘れて座るフランチェスコのご像の中に、今日も澄んだ風が吹き抜けているにちがいない。