夕暮れの道で

復活されたイエスをまだ目にしていないふたりの弟子が
ナザレのイエス”について話しながら、エマオへ向かって歩いていた。(ルカ福音書24章)
ここ数日見聞きしてきた不可解なことで彼らの心は曇っていたようだ。
そこへイエスご自身がさりげなく近づいて話に加わり、ともに道を進む。


だんだんと日暮れが迫り、弟子たちはイエスをお引き留めする。
エスは食事の席で「パンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」
その時彼らの目が開け、その旅人がイエスだとわかり、そしてイエスのお姿は見えなくなった。
“主の食卓”でイエスと出会ったら、もうわたしたちは肉眼でイエスを見ることが無くても大丈夫なのだ。目覚めたふたりはすぐにそこを発ち、エルサレムに向い、仲間たちに事の次第と喜びを伝えた。



わたしの心も夕暮れに向かい、光を失っていくような時がある。そうなると、だんだん状況が把握し辛くなって不安が増す。
「いったいどうなっているのか?」「どうしてこのようなことが?」「この先わたしたちはどうなるのか?」
でも、エマオへ向かう弟子たちの話を読むと、こういう時こそイエスと再会するチャンスであることに気づかされる。

肉眼で見えなくなって初めて、心の目、信仰のまなざしで最も大切なことが観えてくるにちがいない。
心も頭も夜の闇に包まれる時がインマヌエルの現存に気づいて立ち上がるチャンスだ。
“復活された主が今、ここにおられる”ということがわかると、もうじっとしておられない。軽やかな足取りで、生き生きと宣教にくり出す。
すでに主を観た仲間と分かち合い、まだ闇の中にいる人々のもとへ!