恵みよりも


心情にどういう変化があったのだろう。
餌を入れた器を置くと、間髪を入れずに食べ出すラッキーだった。
そして食べている間は、わたしがそこに居ようと居まいと関係ないように
夢中で食べ続けていた。


ところが最近のラッキーは様子が違ってきている。
器を差し出して少し離れたところで見ているわたしにまず近づいて来て甘えるのだ。餌に心魅かれながらも、食べる前に餌の与え主にすり寄ってくる。
その表情には静かな喜びが溢れていて、こちらまでしあわせな気もちになってくる。


「いいよ。どうぞ、どうぞおあがり。ごはん(フード)、うれしいね〜!」と餌に促してようやく口にする。食べる間も尻尾をふりながら喜びを表して、モグモグしながらまたこちらに戻ってくる。


ふと自分のあり方を想った。
神さまからいただく恵みに気づいた時、その恵みに目が留まっていないだろうか?
“恵みの与え主”に向かっているだろうか?
神さまの究極の喜びはわたしたちがよいもので満たされること以上に、神の愛とわたしたちの愛が同じくらいの質と量で行き交うこと。
恵みは「神さまのふところに立ち帰るためのきっかけ」と言える。


神さまはわたしたちがみ前で感謝と賛美の歌を歌うことに渇いておられる。
毎回不器用な表現であっても、ただそこに居て愛と信頼と感謝のこもったまなざしを向けることが“恵みの与え主”の心を満たすことになる。
ラッキーが大切なことを教えてくれた。