My Will


パウロが第三回伝道旅行へ向けて旅立った岸辺。ここに立ったとき、
ことばに表わし難い清々しさを感じた。イエスへの熱烈な愛に駆られて、またも旅立つパウロ
彼を待つものは、死の世界を超えた愛と恵みの充満だった。


ここのところ、わたしは「遺言書製作月間」を送っていた。
自然界の動きからも学べることだし、祈りの中でも目覚めているべきことだが、わたしたち人間の命の長さは
神の手の中にあり、ある意味で人間は操作できないし、してはならない。


    
    カトリックでは日々の祈りにおいて、幼い子どもでも「今も死を迎えるときも祈ってください」とことばにする。
    わたしたちは、イエスや聖人たちの生き様と死に様をしっかりと眺め、そこから聴こえるメッセージを咀嚼する。
    古くから「Memento Mori」(死を想え)ということばが日常で繰り返されてきたが、
    イエスや自分自身の「死」に向き合い、「死」の意味を学ぶことによってこそ、「永遠に繋がる毎瞬」が完成されていくのは確かだ。

    
    大好きだった高齢のシスターが、よく語ってくれた。
   「この世にあるものはすべては過ぎ去ります。そして、はたらきも名誉も財産も学んだことさえ、天国には何も持っていけないのですよ。
    天国ではこの世の宝は何も残りません。ただ“愛”だけが、この世で生きた“愛”だけが、死というベールをくぐったあとも、同質で残るのです」

    

そんなことをあれこれ想っていたら、自分の遺言書にはあまりいろいろなメッセージはいらないことがわかってきた ^m^
なので、一応、事務処理的な伝達や処分についてまとめ上げると、案外、スッキリとしたものになった。
そして清書して預け終えてみると、大地にしっかりと根ざして立ち、天にスッと伸びるような静かな喜びに満たされた。
ヨガのターダアーサナ(山のポーズ)を生きている感じだ。どこにももたれずに、でも、山のようにしっかりと存在しているかのようだ。


ただ一言だけ、その文書に書かなかった思いを述べさせていただけるなら、
    「これまで出会ったすべての方々へ・・・ごめんさい。ありがとう。とてもしあわせでした。
     神さまへ・・・ごめんなさい。ありがとう。とてもしあわせで、楽しかったです。そして、あなたはすばらしい!」