無償の愛


自家用車を持たないわたしは、墓参りにタクシーを利用する。
いつもそうだが、タクシーに乗るとドライバーさんとの会話から豊かなプレゼントをいただく。


瀬戸内海を臨む素晴らしい眺望、それも淡路島に手が届きそうな山の上にお墓があるので、
帰路のため、タクシーに待っていてもらう。うれしいことに、ドライバーさんは必ず水を汲んで来てくださる。
そして、近くに停めた車の前で、わたしの墓参をじっと見守っていてくださるようだ。


車中に戻ると、どのドライバーさんも感想を口にされる。
「こんなこと申し上げてすみません。実は、この一画に車で入った途端、お宅のお墓の
文字が目に飛び込んで、感動しました。今日は、わたしまでお墓参りさせていただいたような
清々しい気もちになり・・・ありがとうございます」


そこでわたしは「父が喜ぶだろうな」と思い、お墓にまつわることを少し話してみた。
「甥っ子たちは、今でも月に二回はお墓参りに来て、墓石を手でていねいに洗っているそうです。
おかげで、いつ来てもピカピカなんですよ。彼らの心はジイジと深い絆で結ばれているようです。」
感心しながら聴いておられたドライバーさんも、思い出を話してくださった。


「実は若いころに腰を痛めて、治療を受けた鍼灸院の壁に、こういう言葉が貼られていたのです。
『人生の、最後の行に “ありがとう”』と。今日、お墓を拝見して、お父さまはほんとうにお幸せな人生を閉じられたと感じました。」


しばらく、あれこれ歓談した後で、わたしは妹の一言を思い出した。
「お墓の前で“お願い事”はダメよ、と言われたのです。でもつい、見守っていてね、とお願いしてしまうのですよ。」
と言うとドライバーさんが語られた。
「それはきっと、“無償の愛”でなければならないからですよ。お孫さんたちがおじいさんにおこずかいをもらえないのに
お墓参りをされるということは、それが“無償の愛”によるものだからでしょう。」



わたしは後部座席からドライバーさんの横顔に合掌した。
社会の価値観に流されて、いつのまにか“無償の愛”から遠ざかり、無意識のうちに自分の利益に繋げているのかもしれない。
そう言えば今回の墓参も、コンサート前の心の清めの意向も入っていた。
ミサや祈りも、自分のためではなく神さまのために、喜んで自分を捧げるようになりたいと思う。