「証し」は死を超えて

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今日は父の命日。この世を旅立ってもう二年になる。数カ月前にあるシスターに声をかけられた。
「この前、信者さんたち数人と○○墓苑をお祈りしながら巡っていましたの。カトリック墓地の地区を出て、一般の地区を周っていたら、道から近いあるお墓に目が留まって・・・。墓碑に刻まれた『ありがとう』の文字にハッとさせられ、とても感動して足が止まったのよ・・・。それがね、不思議なことにあなたと同じお名前だったのよ。だから、あなたを思い出して。」

そこまで伺ったわたしは、すぐにバッグから父の墓の写真を取り出した。「シスター、そのお墓って、もしかしてこれではないですか?」と尋ねると、「そう!そう、これよ!わたしが心打たれたお墓は!!」 わたしたちは大きな声ではしゃいだ(^O^)(^O^)


「あのお墓の発するイメージと、あなたのイメージがピッタリだと感じていた原因は、こういうことだったのですね。」
「お父さまの生き様が、あなたを通して表れているのですね。ナットクできましたわ。」
シスターがご覧になったのは「生きている父」ではなく、「お墓」である。
改めて、父のエネルギーのすごさに感服した。

死を前にしたテレーズのことばに「わたしは死ぬのではありません。“いのち”に入るのです」というものがある。


キリストに結ばれたわたしたちは、しっかりと宣言する使命がある。「死は“いのち”の始まり」であり、「死が終わりではなく、死んだあとも、たっぷり働ける」ことを社会の人々に伝えるよう召されている。そのためには、ひとりひとりが信仰生活の中で何度もいろいろな“死”を体験し、その中で始まる“復活のいのち”を実感していくしかない。


わずか数年の信仰生活だった父だが、これからは墓石を通して、長く福音宣教し続けるのかもしれない。