絶望の中にこそ


年間第23主日 司祭不在の時の集会祭儀 勧めの言葉
「絶望の中にこそ」(イザヤ35/4〜7a・マルコ7/31〜37)        

 「聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」
 今日最初に読まれたイザヤの預言書と最後に読まれたマルコにやる福音書の両方に、この表現が使われ、癒しの奇跡が描かれています。医学の進んだ現代でも、一度損なわれた聴力を取り戻すことは極めて困難です。まして古代では、なお一層驚くべき現象だったことでしょう。
 わたしたちは人生の中で何度か家族のため、友のため、また自分のために「癒し」を切望することがあると思います。でも、聖書に描かれているような鮮やかな癒しの奇跡を目の当たりにすることはありません。なぜなのでしょうか。

 「見よ、あなたたちの神を。・・・神が来られる。神があなたたちを救われる」
 「イエスは・・・指をその両耳に差し入れ・・・そして天を仰いで深く息をつき・・・」とあります。人間の力やこの世の手段ではなく、「神」または「神の子イエス」が主語になっています。すなわち、「神の力」で癒しが行われています。しかも、神の子イエスでさえ、奇跡をおこなう直前に「天を仰ぎ」天の父のみ力にすがったのです。

 現代では、優れた医学研究が一般の人にも理解できるように説明され、健康も自分自身でかなり管理できるようになりました。ですが、病いの根源的な癒し、身体と心の完全な癒しは、神からやってくるとわたしは思います。
 かつてわたしは、現代医学では治せない病いにかかり、病床に伏していたことがあります。西洋医学東洋医学の両方の医師から異口同音に「もう他に打つ手がない。あと一年はもたないでしょう」と告げられるほどでした。
 ついに自分でも「ああ、天国からお迎えが来たのかな」と感じ、立ち上がる気力さえ失いました。しかしその時、神さまが御手を伸ばしてくださったのです。不思議な力が体の奥底から湧き上がってくるのを、わたしは感じ、その後病いは少しずつ快方に向かっていったのです。無力さに打ちひしがれながらも、何とか神さまにまなざしを上げようとするとき、神さまご自身の御手がわたしたちに治癒を行ってくださるような気がします。

 まだ何とかできると思えるとき、意外と癒しは遠く、また逆に、もうどうにもならないように見えるとき、そのときこそ癒しが近づいている、そんなことがあるように思います。絶望的なときこそ、神さまへ100%の希望をかけ、神さまに救っていただくチャンスのときかもしれないのです。絶望的に見えるからといって諦めることなく、むしろそんなときにこそ喜びましょう。