神さまが催される祝宴へ

司祭不在のときの主日の集会祭儀の勧めの言葉
 海星病院 14・10・12
 A年 第28主日 
(Isa.25/6~10a・Phili.4/12~14,19~20・Mt.22/1~14)

 激しい嵐をおこされたり、澄み渡る美しい空を見せてくださったり、様々な自然の姿を見せてくださる神さまはどんなお方なのでしょう。小さな被造物であるわたしたちにどういう思いを抱いてくださっているのでしょう。
 
 今、読まれた第一朗読のイザヤ書福音書では、神さまは「祝宴を催してくださる方」として描かれています。主なる神さまが罪人であるわたしたちのために「良い肉と選り抜きの酒」を用意して下さるのです。   
 みなさんは宴会を主催するご経験がおありでしょうか。宴会の準備としては、まず招待する人々を選びます。そして、お客様おひとりおひとりの喜ぶ顔を想像しながら、心をこめて食事や装飾、音楽などすべてを用意します。神の国の王である御父も、招く人々の顔が喜びに輝くことを想像しながら、祝宴の日を楽しみにされていらっしゃることでしょう。
 
 ところが、福音書では招かれた人々がその招きを無視し、それぞれの畑や商いに向かいます。また、王から送られた使いのものたちを殺します。
 このときの王の激しい怒りから、逆に、招いた人への愛と期待の大きさがどれほどのものであったかが感じられます。 純粋でひたむきな愛に応えられなかった王はどれほどショックを受けられたことでしょう。
 そして、それでもなお宴席に人を迎えようとする王の思いから「わたしたちの愛と歓喜に渇く神」の痛々しささえ感じられます。わたしの心には「人間とともに同じ食卓を囲み、喜び祝いたい!」という神さまの思いがひしひしと伝わってくるようです。

 
 わたしたちが喜びに満たされるよう祝宴を用意してくださっている神さま。
そのみ心に、わたしたちはどうすれば愛をもって応えることができるのでしょうか。せっかく招かれているのにわたしたちは畑や商いに向かっていないでしょうか。畑や商いに向かうことは特に悪いことではないはずです。でも神さまから呼ばれたわたしたちの心が「今、神さまの招かれることに向かっている」のでなければ「出席を断っている」ことになるのでしょう。
 わたしは「自分のプラン」「自分にとって好都合のタイミング」に目が向きがちです。いただいている病気や課題についても「早く治ってほしい」「早くなんとか解決を」と自分のビジョンに縛れることがたびたびあります。
 
 また、こんな理屈も頭に浮かびます。「神さまご自身が目の前に現れて招いてくださるなら、喜んでついていくことでしょう。」と。ところが今日のみ言葉にも描かれているように、神さまはわたしたちをご自身で招くより、使者を送られます。旧約の時代には預言者たち、新約の時代にはナザレのイエスを通して招き続けておられる父なる神さまは、現代のわたしたちを身近な人や出来事を通して招いてくださるのかもしれません。ですから、いつも耳を澄ませて、呼ばれたときに、呼ばれた方へ素直に出かける恵みをいただきたいと思います。
 
 神さまの準備してくださっている祝宴はわたしたちの想像をはるかに超えていることでしょう。今、その全容を見ることはできなくても、最善の祝宴が用意されていることを信じて招きに応えたいと思います。