ふぁうんでいしょん (1)

25年前に洗礼を受けたとき、それを挿んで6年間ひとりの司祭に指導していただいた。

継続してひとりの人から霊的指導をしていただけるのはとても恵まれたこと。

「水の中を通る時も・・・火の中を歩いても・・・」(イザヤ43/2)わたしがしあわせでおられたのは
その時受けた恵みによって、信仰生活の土台が築かれたからだと思う。

その宝を自分の中に抱えこまずに、このタイトルで師のメッセージや教えを発信しようと思いついた。


「『イソガシイ』と言ってはならない」

なぜか?「イソガシイ」という漢字は「心を亡くす」と書くように、祈りとは程遠い心の状態。

“祈り”なしに“活動”していることになる。従って、神の国において価値がない。

自分でこなせない分量の仕事を引き受けた判断の無さ、

[[]]自分の力量を謙虚に認め、それを表わせなかった傲慢さを周りの人にわざわざ発表することになる。


最近のわたしは「イソガシイ」を連呼している(@_@;)

師がご指摘のとおりの惨状だ。