ふぁうんでぃしょん (5)


若いころの6年間、勤め帰りに
たびたびご聖体訪問をしていた。

暗い旧聖堂の中、硬い跪き台でご聖体ランプを見つめ、
大きな十字架像を仰ぐ。


(写真は隠遁する聖ベネディクト)
 

   「召命とは、神さまがひとりひとりに望まれている道を歩むこと。
   それが結婚生活か修道生活か司祭職か・・・だれにもわからない。
   ただイエスとの祈りの中ではっきりとしてくる。
   だから、青年であるあなた方は大いに祈り、“彼”に聴きなさい」

3年間ほどは甘い語らいの時が流れた。教会へ向かう足取りも軽い。
“彼”の望みも表情も手に取るように感じられる。わたしの心は単純に弾んでいた。
仕事中に出会うすべての人の中に“彼”を容易に見出し、
出来る限り愛を込めて、軽やかに仕えることができた。


ところがある日、突然“彼”が沈黙し、顔色がわからなくなった。
えっ?何か、み心を痛めるようなことをしたのかしら?いえ、わたしが
罪にまみれていることは、ずっと前から御存知のはず。今に始まったことではない。
ではなぜ? 不安に駆られて、恐る恐る師に打ち明けた。
ほんとうに怖い瞬間だった。

  
「おめでとう。あなたは恵まれていますよ。」

一瞬耳を疑った。でも、師は深いよろこびを湛えて微笑んでおられる。
?? 「こういうことは誰もが恵まれる体験ではないのよ」 ??
その時は、慰められても気が晴れなかった。ただ指示された通り、
逃げないでひたすら忍耐して、沈黙する“彼”のもとへ通い詰めるだけ。


どんなに甘い慰めに満ちた時期よりもその期間が、わたしの信仰・愛・希望を
磨き、清めていたということを数年後に霊的母から教わった。
彼女は感慨深げに言った。「優れた司祭ですね!それがおわかりになるとは」