平和旬間


カトリック教会で平和旬間が始まった。
ふだんテレビをほとんど観ないわたしだが、この時期には特につけたくなくなる。
自分の選択について考え込んでしまうからだ。


神さまは時々、おもしろいことをなさる。
ひとつのことがらについて、ある人には「右に行け」と言われ、ある人には「左だ」と指示される。
旧約聖書にもそういうところがある。
こっちの人には「神殿を建てよ」、あっちの人には「神殿、神殿と言うな」と。


この時期には戦争を二度と繰り返さないよう、様々な番組が流されているようだ。

わたしが体験してきたことを二度とだれも体験しないように記録して、発表するようにという人もいる。
それとは逆に沈黙しているように促す声もある。これ以上だれも傷つかないように。

どちらもまちがっていると思えない。
では、神さまはわたしにどちらを望んでおられるのか?別の方法か?


アウシュビッツから生還したある老婦人が、近年再びアウシュビッツを訪ねる様子をレポートした番組があり、数年前のこの季節に観たことがある。
もともと静かな彼女が、当地に足を踏み入れてからますます言葉を口にしなくなった。レポーターはてっきり、彼女が自分の受けた残酷な体験を思い出したからに違いないと思い、そのようなニュアンスの語りかけをしていた。

でも、彼女はますます深く沈黙していった。そしてついに、番組の最後の方で彼女は重い口を開いた。


「わたしが言葉を失っていたのは、受けた残虐さを思い出したからではないわ。
あの状況の中で、自分自身のほんとうの姿を見てしまったの。そのことを思い出して、戦慄を覚えたからよ。
つまり、極限状態でのわたしは、自分が助かるために他のひとが犠牲になってもよいという気もちになっていた。自分が生き延びるために、誰かが殺されることを・・・」 そう言って、口を固く結んだ。


わたしたちは「自分自身が罪人で、塵にすぎない」と簡単に口にするが、
深くそう認識できる機会はめったにないのではないか。そこそこ秩序の守られた社会や団欒の中にいる間は特に。

神の御前で、よほど深い祈りに沈み、注賦的な光で照らされたら別だが。


反戦を訴える時、社会正義のために動く時、自分自身のほんとうの姿や立ち位置を忘れないようにしたい。
心に照らしを受けて自分自身のほんとうの姿を知り、「不条理」という言葉が意味をなさないということがわかった人の“声”には真理の響きがあり、説得力を持つだろう。


 
  いつも、拙いつぶやきと分かち合いを読んでくださるお友だちのみなさまへ(^o^)/
   お盆過ぎまでブログをお休みさせてくださいませ。いえいえ、夏やすみではなく、逆に締めきりの迫った仕事があって・・・息抜きのブログもお捧げして取り組まなくてはならないので、ごめんなさい。
   お盆明けにはCDも産声を上げそうです(*^。^*) また、よろしくお願いいたします。時々、聖人たちのことばだけを書かせていただくかもしれませんが、また逢う日まで(お盆あけくらいでしょうか?)、皆さまもお大切にお過ごしくださいね(^o^)/