ふぁうんでぃしょん (5 )


「何があっても、決して司祭の陰口を言ってはいけません」
師は、ことあるごとにわたしたち青年に釘を刺した。

でも、これを守るには鋼鉄のような意志が要る。
正直、わたしも守れないことがある。呆れて、ついボヤいてしまう。
でも師は「おかしいことを封印しなさい」と言われたのではない。


「もし、ほんとうに困ることがあれば、必ず本人だけに言いなさい。
よく祈ってから正直に、然るべき態度で。」

司祭も弱さと罪深さを持っている。自分の背中は見えない。
お互いに成長していくために、愛をもって指摘しあうことは大切なことだと思う。

但し、それを本人以外に洩らすとき、

「教会の中の癌細胞となって、結局自分たちの教会を潰してしまうことになるから。
そのうち司祭はいなくなるよ」
・・・・悲しいかな預言は何割か当たっている。

人を批判するとき、わたしたちは自分のあり方を棚に上げてしまっている。
よく糾明して、祈って、謙って、相手が変わる可能性を信じて、正直に申し上げる時、もし相手が病か障害を持っておられなければ、ほとんど通じると思う。
でも、こちらの心に何か曇りがあると、言葉やまなざしが疎通を阻む。

この二年半、わが教会に仕えてくださった司祭を通して、このメソッドがほんとうであることを再認識した。
わたしたちは彼に感謝すると同時に、謝らなければならないことも多いと感じている。自分の息子や娘が、これほど短期間でこれほど変化されることをどれほどの人が体験されるだろう。


ますます“神のわざが現れるため”(ヨハネ9/3)、弱さを身に纏いながらも精進しようとされる司祭方の聖性の深まりを祈りたい。
そのためには、わたし自身が日々変わらなければならない。
わたし自身が蝋燭のように身を熔かして、“神の国”の一隅を照らす者にならなければ・・・