召命


ふつう、人が人生の進路を決める時、向き不向きや好みで選ぶと思うが、
キリスト者の歩む道はもうひとつ違う次元で識別する。

“神さまが”わたしにお望みになる道を尋ねて、自由な心と愛をもって応えるのだ。
それは自分の好む道とは異なることがある。好き嫌いの次元ではないのだ。
“神さまの望み”に応えるか、否か。
その人にとって何が究極のみ旨かは、本人にしか、いえ、本人にも生涯の終りまでわからないのかもしれない。他人にはなおさら。


神さまが「右を向け」と言われれば右を向き・・・
神さまが「左を向け」と言われれば左を向き・・・
そうしているのが一番まちがえないようだ。


そこに御父やイエスへの愛があるなら、盲目的な硬さではなくさわやかな喜びの風が吹く。
疲れや難題の中にも、楽しさや力が湧いてくる。
病気に罹っても、病人にはならない。
挫折と涙の池から花が咲く。


ラッキーのそばに横たわるぬいぐるみの召命は、ラッキーに同伴することのようだ。
ラッキーの召命は、今のところわたしに同伴することのように見える。

非常階段で発声練習するわたしのそばにいるラッキーはしあわせそうな表情をしていてくれる。
わたしも“何だかわけがわからない状況”の下でも、神さまの御前でしあわせな表情をしていたい。