はじめまして♪「めぐみあふれる聖マリア」 ①


         
       恵みあふれる聖マリア、
       主はあなたとともにおられます。
       主はあなたを選び、祝福し、
       あなたの子イエスも祝福されました。
       神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、
       今も、死を迎える時も祈ってください。アーメン。




みなさまご存知の「Ave Maria」の祈り。
数年前に日本カトリック中央協議会より出された日本語訳にメロディーが産まれた。

「あの言葉が抜けている」「このことばのニュアンスが正確に表わされていない」「文語訳の方が・・・」等々、
口角泡で議論したり、主張したりする声をよく耳にする。
でも、そういう方々はこの祈りをほんとうの意味で祈ったことがあるのだろうか?


多少なりとも語学を嗜む人なら、奥村師の言われる「翻訳不可能説」に少しは共感されるであろう。
ひとつの言語から、もうひとつの言語へ訳すとき、完全なものなどありえない。
何に重きをおくかによって様々な可能性が出てくるし、
何かを手放すこともあるに違いない、とわたしのような無学なものにも察しがつく。


教会の責任あるお立場の方が、祈りながら試行錯誤を重ねて、譲ったり主張したりしながらその時・その条件の限界の中で
訳されたものとして、わたしはかたじけなく受けとめた。馴染んだ文語訳も、「若い世代と唱えるなら・・・」と手放した。


そして、心で読み・・・ゆっくり唱えてみる。


個人で祈る時に使うラテン語の「Ave Maria」同様、愛をこめて礼拝しつつ静かに祈るうちに
この口語訳の透明感に親しんできた。
尊敬するある観想修道女も「すばらしいお訳だと感じてきました。静かで、必要なことがしっかりつまっているようで」と
噛みしめるように言われた。
抜けていると指摘されることばも、彼女は行間に読みとっておられるのかもしれない。


それにしても、このアルバムのアレンジャーU氏には感心した。
アレンジに入る前に、各曲の詞をじっくりと読んで味わっておられたのだ。
しかも、この曲については悩まれたようで、口を尖らせて訴えてきた。
「この祈りって、上から目線かと思いきや、途中から下から目線になってるよね。どうとらえたらいいの?それによってアレンジの雰囲気が変わってくるからねぇ・・・」   わたしは「さすが!」と手をたたいた。
前半は、お告げの時に天使からマリアさまへ向けられたことばからとられ、後半はエリザベトがマリアさまへ向けたことばからとられているので、彼のいう「上から目線」「下から目線」は見事、的を得ていた。そういう説明と、カトリックの伝統について説明をさせていただいた。
彼の曲作りや解釈が、真摯な態度で行われていることを証明したエピソードである。


わたしも祈りのことばが習慣化しないよう、彼のように意味や背景をていねいに感じとる姿勢を忘れないようにしたいと思う。