勧めのことば

明日(11・7・24)は海星病院で、司祭不在のときの主日の集会祭儀が行われます。
勧めのことばを準備しました。

A年 年間第17主日 (ⅠKing.3/5,7~12・Rom.8/28~30・Mt.13/44~52)

 今読まれたマタイによる福音書で「天の国」ということばが二度使われています。誰もがあこがれながらも、直接観ることができない「天の国」とはどういったものなのでしょう。
聖書が指す「天の国」とは、この世を旅立ってから迎え入れられる「あの世」ではなく、わたしたちが生きているこの世界の中に始まる状態を指すと言われています。聖書の別の箇所では、それを「神の国」とも表現されています。ギリシャ語原文では「神が王として支配しておられる領域」という意味のことばが使われています。すなわち、「神さまの思いが実現している状態」「神さまが喜んでおられる状態」を指します。もっとわかりやすく表現するなら、「ひとりひとりが“神の子”として大切にされているところ」「傷ついた人や敵対した人たちがゆるし合っている心」「自分は滅びても、他の人の活躍を喜んで応援する心」「素直で無邪気な子どもの笑顔」など、神さまのお望みが実現している状態を指しています。


では、どこに行けばそのような状態が広がっているのでしょう?
エスさまは「天の国」を「畑に隠された宝」「高価な真珠一つ」に譬えておられます。そのことばからすると、残念ながらこの世では見つけにくいものであり、社会の勢力に覆われがちな「少数派」に属するもののようです。でもイエスさまは、「もしそれを見つけた人はすべてを手放してでも、そのすばらしいものを手に入れようとする」と言われます。確かにわたしたちは、かけがえのない人や生きるために最も大切なものに出会うと、この世の損得の計算は吹き飛んで、あらゆる代価を払ってでもその宝を掴もうとします。


しかし、わたしたちは長い年月を生きてくると、この世を生きる知恵や要領のよさが身につきがちです。せっかくの宝が見えかけても、リスクを冒すことを恐れて、チャンスを逃していないでしょうか。休む時やはたらく時、健やかな時や病める時までも自分で決めてようとしないでしょうか。神さまが今、自分に何を望まれておられるのか、心静かに聴き、委ねてみた時に、わたしたちは「宝」に気づき、心の中に「天の国」が広がるのかもしれません。
 
暑くて何もしたくない時、だるくて何もできない時、そういう時にも、今日最初に読まれた『列王記』のソロモンのように「わが神、主よ、・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。・・・この僕に聞き分ける心をお与えください。」と祈ることができます。そうすればその願いだけで、ソロモンのように神さまをお喜ばせすることができ、小さいけれど最も尊い「天の国」をこの世に築いていくことができるのです。


  わたしたちは毎日、それぞれの限界の中で生かされています。震災や貧困で苦しんでいる人を助けるために出かけたくても、環境や体力が思うように揃わない時や病床で過ごさなければならない時など、とても心苦しく思います。でも落胆せずに、ソロモンのように「聞き分ける心」「見分ける心」を祈り求めてみましょう。小さくて見つかりにくい宝「天の国」が、身近なところにあるかもしれません。それに気づき、神さまに感謝し、讃えることで、大きなわざを行わなくてもこの世に「天の国」を広げて行けるのです。

この病院と特養「うみのほし」にご滞在中のすべての方々と、また被災地で助けを求めるすべての人々のために、みなさまとご一緒に祈りたいと思います。わたしたちがどのような状況に置かれる時も、隠れた宝「天の国」を探し求めて歩んでいくことができますように。