今週のクラスの要約 「日常の中で“死”を生きる」 


★ カトリック教会では11月を「死者の月」として祈っています。この世を旅立った人のために祈ると同時に、
 わたしたちがいつかは帰る「天のふるさと」について思い巡らすよい時期だと思います。
  この地上にいながら天のふるさと(天国)を確信するためには、わたしたちが日常生活で“死”を体験することが確実な道だと思います。
 「小さなわがままを我慢する」「人が嫌がる仕事を黙って引き受ける」「余計な一言をこらえる」「苦手な人に微笑みかける」など・・・。
 これらは、聖人たちが人知れず行っていたことです。たとえば、幼きイエスのテレーズは苦手なシスター出会うたびに、優しく微笑みかけました。
 こういう“お捧げ”はわたしたちの心に痛みを生じます。「小さな死」とも言えるその痛みの中で祈りながら留まると、
 言葉に表し難い、深い喜びと平安が魂の奥底から湧き上がってきます。これが「復活の喜び」であり、「天国前味」と言えるでしょう。


★「日常で“死”を生きる」とは、「愛をこめて十字架を担う」ということです。
       誰と担うのでしょう?⇒イエスとともに、マリアとともに(わたしたちは一人ぼっちではないのです)
    何のために担うのでしょう?⇒イエス・キリストとともに復活の喜びにあずかるため
   気をつけることは何でしょう?⇒苦しみや痛みそのものが目的にならないように気をつけましょう。
 
      人間はとても弱いものです。知らず知らずのうちに、「捧げている自分」に酔ったり、
      痛み・苦しみそのものが快感になったりしてしまうことがあります。
      たびたび自分の意向を見直して、「イエス・キリストとともに愛をこめて自分を捧げる」ようにしましょう。
  
★ 自分を捧げる・“死”を生きるとは難しいことでしょうか?
   修道者のように出家をしたり、親しい人と距離を置くという目に見える形ではなく、
   自愛心から離れることと言えるでしょう。(離脱)
   わたしたちの自愛心はどこまでも深く根付いています。意識できないところまでも深く染み込んでいます。
   そんな古い自分に死んで、イエス・キリストに結ばれた神さまの子どもとして生まれ変わることを天の御父は望んでおられます。
   
   「自分にとって楽」「自分の考えは正しい」「自分の好みはこうだ」「他の人は理不尽」「他の人はまちがっている」・・・・
   教会生活においてもいつの間にかこんな考えが心に広がっていないでしょうか?
   わたしたちの魂が澄んで、空にならないなら聖霊は広らないでしょう。
   恵みを無駄にしないためにも、ぜひ、離脱のエクセサイズを習慣づけましょう。
   
★ 自から進んで捧げるものだけではなく、不慮の事故・病気・別れ・挫折など、予期せぬ十字架に見舞われた時も、
  イエスの死と苦しみに与る絶好のチャンスです。
  出来事の表面は悲劇的なことであっても、その奥に神さまの善意は輝いています。
     
  とはいえ、わたしたちの自然性にとって十字架を担うことはとても苦しいことです。
  でも、その苦しみの中でイエスに叫び、イエスの思いをみことばに聴きながら、しっかりと“死”の中に留まりましょう。
  そうすることによって、わたしたちの魂の奥底に、言葉には言い尽くせない喜びと平安が湧き上がってきます。
  それこそが「天国の前味」「地上で始まる天国」と言えるでしょう。

  この離脱のエクセサイズを繰り返すことによってわたしたちの魂における「信仰の筋肉」がたくましくなり、
  やがて訪れるこの世の旅立ちの時、彼方から近づく光に眼差しを向けることができるにちがいありません。


☆ 次の日曜日は「待降節第一主日」になり、カトリック典礼歴では新たな一年がスタートしますので、
  カトリック典礼歴についてもご説明しました。