集会祭儀の勧めのことば 待降節第3主日


 第一と第二の朗読では「喜び」ということばが何度も繰り返されていましたが、
今日は「喜びの主日」と言い、救いの御子をお迎えする喜びをかみしめる日になります。
12月に入ってから、街はクリスマス商戦で賑わい、心弾む音楽やイルミネーションで溢れています。
でも実際、クリスマスの日が来た時、わたしたちの心は深い喜びに満たされるのでしょうか。
もし、心が熱くなるような喜びを感じないとしたら、それはなぜなのでしょう。また、深い喜びに包まれるためには、クリスマスまであと一週間ほどの間にどういう準備すればいいのでしょうか。


 最後に読まれた『ルカ福音書』では、洗礼者ヨハネが「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」と言っています。この話の登場人物の心を眺めてみましょう。「下着を二枚持っている者」と「下着を一枚も持たない状態で、恵んでもらった人」では、どちらの心に感動的な喜びが広がったでしょう。また、もし自分が「食べ物を持っている」側であるのと「食べ物を少しも持たない状態で恵んでもらった」側にあるのとでは、どちらの立場にある時の方が深く喜びに包まれるでしょう。いずれも、後者の「持たない状態」「必要なものにも事欠く状態」にあって、与えられる立場になる方が、心に喜びが満ち溢れているに違いありません。
 
 これは下着や食べ物だけに関わらず、わたしたちの心に蓄えられているあらゆる宝にも当てはまるのではないでしょうか。地位・実績・名誉・経験・社会的な成功・円満な人間関係・健康など、この世的にみると良いものばかりです。でも、これらのもので満たされている心は、いつの間にか「救い」に渇く心を失っていきます。「神さまからの救いが無くてもなんとか順調にやっていける」「神さまに熱烈に助けを求めなくてもそこそこ暮らしていける」。もっと重症化すると「自分の力で築いてきた」「自分は正しい」と思い込んできます。
 そうなると、「救い主よ、来てください!」という叫びが心に湧き上がってくることなくクリスマスを迎え、ただクリスマスの美しい雰囲気だけに浸る表面的な喜びしか感じないままで終わることでしょう。

 わたしたちに与えられる病気や挫折などの試練や人間的な弱さは、無い方がいいと感じます。
でも、その苦しみやもがきの中で「神さま、助けてください!」「どうか救いに来てください!」と声をからして叫ぶ時、クリスマスという大きな恵みをいただくための最善の準備となるにちがいないと思います。


 クリスマスにいただく「いちばん大きなプレゼント」、それは「小さな、小さなイエスさま」です。
静かで弱々しい赤ちゃんとなって来てくださる救い主に気づくためにも、わたしたちの心からこの世的な宝や飾りを取り去って、
「あなたが来てくださらなければ、今日生きることもできません。救い主よ、来てください!急いで助けに来てください」と、叫びたいと思います。
空の手を広げて救いを待つ心には、クリスマスの恵みの鐘が深く鳴り響くことでしょう。


           司祭不在のときの主日の集会祭儀 海星病院 12・12・16
           C年 待降節第3主日 (Zep.3/14~17・Phil.4/4~7・Lc.3/10~18)