小さな舟は風に吹かれて 5


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大地に身をとかして、天と大地の間に透明な自分を置いて・・・
すべての力を静かに手放して・・・顎の噛み合わせもゆるめて・・・
舌の力も眼球の力もゆる〜めて・・・
思考や判断から離れて、澄んだからだの奥で“ありのまま”を眺める・・・



CDにしてもコンサートにしても、人々の感想は様々だ。
わたしのことに限らず、人が何かを判断する時、「あの人は○○の実績があるから」「あの人は○○大学を出ているから」「○○年も続けているから」「○○の教授だから」・・・と、何かの基準で計ることが多い。
手応えのある基準で理由を見つけると、対象を掌握できたような気がして安心するためなのか。
便利快適な現代文明の中で、神さまから与えられている「見抜く感性」が鈍ってしまっているからか。
あるいは、自分の中の響きを聴きとる自信がないからか。



わたしの周りにはすばらしい人々が集められてくる。神さまを讃えずにおられない。
彼ら彼女らは“小さな舟”の弱さやボロさに目を留めるのではなく、その舟を動かす風に気づいておられる。
目にふれない大切なものを見抜く眼を持っておられるか、物事の奥に響くもの聴きとっておられるようだ。


わたしは歌唱の専門家ではない。だから、お恥ずかしいことに不安定な発声になってしまうこともあり、
M.C.もおぼつかない。現状を自覚しているので、「お耳汚し」になってしまうかもしれないと思うこともある。
でも、すばらしい耳をもっておられる人は表面のお粗末さを突き抜けて、その奥のものに出会っておられるようだ。


そういう方々の“まなざし”や“耳”に敬服する。わたしも真実な祈りに目覚めて、確かな耳をいただきたい。
すべてを鎮めて、澄んだ心に御子の足音を聴きとれるようになれば、どんな人・どんな出来事の中にも
神さまを見出すことができるにちがいない。